着物との付き合い方。〜京都編〜
京都の好きなところは、着物を着たい気持ちになるところ。
七五三の着物に魅了されてからずっと 着物の人に憧れているのに、現代の日常を送るには着物での立ち回りは何かと不便で「普段着着物」計画は実行できないまま。
あぁ、60才の歳になったら髪を白髪に染めて着物暮らしをしよう‥ -そんな風に 東京OL時代は思っていた。
国際結婚でアメリカに行くことになって、それなら「これが普段着です。」って顔で堂々と(アメリカは自由の国だし)着物をきてみようかと思ったけど、3ヶ月のアトランタの生活で、着物を着たいという自分の気持ちも 必要性を感じる場面もないまま。
きっと、着物が日常的な実感として着られている日本や 日本文化から離れるほど、着物文化を成立せしめている何かが薄らいでしまって、「私は日本人」ってだけでは成立しないんだと思う。(生け花の花展で日本人の先生は着物を着ていたし、ワシントンD.C.の桜の下でエンゲージメントフォトを撮影するときに 着物を着たけど、どちらも記念や特別感を込めて着ているからやっぱり「日常の着物」とは別のもの。)
とにかく、京都に帰ってきて やっぱり「是非とも着物を着たい!」っていう 自分の気持ちが 街中にたくさん転がっているのを発見して、すごく嬉しくなった。 だから8月は、着物(浴衣)を日常的にたくさん着よう!と決めて、何も用事のない日の午後になったら 浴衣に着替えて外にでる。
下駄のカランコロンを聞きながら、ふらふら散歩。
住んでいる東山エリアは 清水寺や祇園、先斗町にも近くて「昔からの街並み」が文化財として保存されている。 外国人観光客が 浴衣姿の私を 名所とともに撮影してることに気付いたら、ボランティアモデルとして 美しい景観の一部に溶け込めるように ちょっと意識する。
京都の お寺や神社にまつわる季節の行事や 茶道など日本文化の稽古事、歩いて回れるチャーミングな街並みが守られてる限り、心理的に着物を着たいという思いは変わらない、はずだ。
実際に目の前にしているときには、他の近代都市では得難い 不思議な光景だと思わず 見逃しているんだろうな・・・それを探しながら 人生の自由時間を満喫、そして あっという間に8月半ば。三十三間堂と伏見の日本酒の酒蔵に早く行かなくては。